熟年夫婦の温泉旅日記

源泉掛け流しを求めて…。熟年夫婦が全国の温泉を旅して歩いた記憶を辿ります。本ブログ記事には広告が掲載されておりますがご了承下さいな。

下風呂温泉(東北)ブログ


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前回の5月下旬に、本州(橋つながり)最西端の角島を訪問しましたが、今回は避暑を兼ね、本州最北端の下北半島大間崎まで足を延ばし、標高の高い八甲田山周辺の温泉(八甲田登山を含め)を巡る旅を8月22~26日の4泊5日で計画しました。 ただ、大阪から青森や、三沢空港往復の飛行機便の予約が取れず、大阪-花巻空港往復便で対応することになり、今回訪問の温泉地は花巻空港からレンタカーで下図の青いルートに沿って、①下風呂温泉、②浅虫温泉、③荒川温泉及び④蔦温泉を巡りました。尚、赤字の箇所は立ち寄りスポットです。

初日は早朝7時05分大阪伊丹発、いわて花巻空港行の便に、エンブラエル170(76人乗りのブラジル製双発ジェット機)23番ゲートにはボーディング・ブリッジがなく、バスで飛行機の駐機場へ移動して搭乗。 伊丹空港の出発が遅れ、いわて花巻空港には10分遅れの8時40分に到着。急いで予約済みのレンタカーの手続きを終え駐車場に、今回5日間お世話になる車はマツダ・アクセラです。 尚、今日の予定は、日本三大霊山(比叡山・高野山・恐山)の1つ恐山菩提寺を訪問後、①地点の下風呂温泉、ホテル三浦屋に宿泊です。初めて乗車する車の為、ナビ操作等に手間取り、結局9時に花巻空港を出発、その後東北自動車道、八戸自動車道を経て、はまなすラインから国道4号線で約290kmを5時間のドライブとなり、14時前恐山菩提寺に到着。下図は、入山受付所でもらった恐山菩提寺参拝の順路図です。台風9号の影響でしょうか、少し前から降り続く土砂降りの雨の為、赤いサークル内の総門でガイドと参拝スタートの待機中、恐山ガイドの加藤さんから、冒頭「恐山には恐山という山はなく、あくまで恐山菩提寺というお寺の名前であり、恐山という名前の由来は、アイヌ語のウッシュロ(窪地)が訛りウソリ、さらにオソレと訛り、それに恐い山=恐山と当て字をしただけ」と説明を受け、霊山の恐ろしさの不安や緊張から解放された感じがします。さらに、恐山菩提寺の説明が続き、約1200年前、天台宗の高僧、慈覚大師円仁がこの地を訪れ、真ん中にお地蔵さんを祀って創建したと伝えられている が、その後、争乱の兵火によって焼失。約100年ほど廃寺の後、1530年曹洞宗の僧聚覚が南部家の援助を受け円通寺を建立して恐山菩提寺を中興し、曹洞宗に改められた経緯があるようです。(※慈覚大師が唐で学んでいたころ、夢で「国に帰り、東方行程三十余日のところに霊山あり。温泉が湧出していて、これを浴びるものは諸病悉く治癒する。猛火は焔々として地獄の相を現じている。そこに地蔵一体を彫作して、一寺を建てよ」とのお告げがあったとの由)雨が止まないので登山用レインウェアーに着替え、傘をさして参拝路を進んでいきます。正面山門の左手に本堂が見えます。昭和初期、恐山は再び大火にあい、伽藍の多くを焼失し、そのとき町にあった武道場を仮本堂として移築されたそうです。本堂内では現在、一日3回の塔婆供養が行われています。又本堂の中には不思議なことに花嫁姿の人形がぎっしり詰まっていました。未婚のまま早逝した息子のために、花嫁人形が納められたものと説明あり、但し、堂内は撮影禁止となっていました。本堂の横には恐山と書かれた山門があります。(画像をクリックして拡大すると雨のすごさがご覧いただけます)雨の中を山門から本尊安置地蔵堂に、四十八の灯篭が並ぶ参道を歩いていきます。左右には恐山温泉の湯小屋が、そして右手奥には宿坊の屋根が見えています。本尊前から振り返って見た山門と境内ですが、ブログ20160822142233(5)死者の霊が集うところとして、イタコの口寄せで知られる場所なのでしょう。但し、イタコは常時滞在しているのではなく、口寄せは夏と秋の祭り時期のみだそうです。本尊でお参りを済ませ(願い事をして良いようです)、本尊横の地獄への道に、階段を上り上がったところが納骨堂です。納骨堂から無間地獄を過ぎて大師堂へ、大師堂には慈覚大師の舎利が収まっていると言われています。ここに石積みと風車がいっぱいあることから「賽の河原信仰」の話を聞くことに、ブログ20160822143002(4)むだな努力のたとえとして言われている「賽の河原」、7歳以下で死んだ子供は親より早く死ぬため、親不孝として地獄に落とされる。この世に生まれてなんの功徳も積まないまま死んだため、賽の河原で石積をして功徳を積むという可哀想なお話し。自分の背丈だけ積み終えれば成仏して生まれ変わるそうですが、完成間近になるといつも鬼が出てきて全部壊すため、いつまで経っても塔は完成しません。(そんな時、鬼から子供たちを庇ってくださるのがお地蔵様というお話し) これを知ってる親が死んだ子供の為に石を積み、風車は死んだ子供のあの世での遊び道具として供えられています。 賽の河原の石積の様子、我々もここで少しでも上にという思いで、石を一つ積んできました。賽の河原の奥の森、恐山大祭や秋詣りの時は、山が真っ白に大変身するようです。あの世から降りて来た霊があの世へ戻る時に、道中が長い為、汗と涙をぬぐったりする手ぬぐいと、途中で履き替え用の草鞋が木の枝にかけられ、又賽の河原には風車でいっぱいになるようです。(現在は、清掃業者が全て持ち帰った後の状況です)続いて、賽の河原地蔵堂八角円堂)へ、ガイドの加藤さんが扉を開けて待っています。死者が降りてくる場所といわれ、堂内には死者がいつ来てもよいように、家族を失った遺族の方が納めた一揃えの服、履物、かばん、ランドセル、花嫁人形、写真などが納められており、少し不気味な感じを覚えす。八角円堂を出てしばらく進むと目の前に、天国が...宇曽利湖畔の極楽浜にやって来ました。天気は悪いですが、さすがに神秘的な光景~!!!湖畔の砂はガラスの原料にもなる珪砂で、天気が良ければもっと真っ白に見えるようです。湖の周囲は10km、湖水はPh3.1の強酸性の水の為、生き物はほとんど住めないようですが、ウグイという魚のみ生息しているようです。湖畔から少し行くと、異様な形をした草のある場所に出くわしました。これは賽の河原で子供を追いかける鬼に足かけて転ばすため、死んだ子供の親が草を結んだ後と説明あり。その後、数種の地獄を通り抜け入口の総門前へ戻ってきました。所要時間1時間15分、3.5kmを歩いてきたことを知らされましたが、この雨の為か?境内には誰の姿も見えません。山門前の記念写真撮影台も開店休業状態です。最後に、ガイドさんより六道輪廻の話があり、56億7千万年後に出生する弥勒菩薩まで人間はこの世界から抜け出すことが出来ないことを聞き、六道の衆生を救済する六地蔵にお参りして恐山を後にしました。恐山から今日